JR新長田駅⇒(電車)⇒JR三宮駅⇒(徒歩)⇒神戸市庁⇒三宮センター街
新長田駅の仮設ホームから、三ノ宮方面をながめると、高いシートが被せられたビルが多数目につく。線路はあくまでも仮のもの であり、旧線路跡の基盤の赤いレンガは、もろくも崩れている。そんな中を、青い各駅停車は、ゆっくりと三宮へ向かって動き出した。三宮周辺は、ビルが林立している。この風景は、東京のそれと全く変わらない。ただ、作業員が散水しながら取り壊し中のビルや、 ひとけがなく、不気味に建っているビルが、あちこちにあることである。東京も大地震に襲われたら、こうなってしまうのだろうか。
三宮駅は、たくさんの人でごったがえしていた。(雰囲気は渋谷に似ている)阪急三宮駅ビルは跡形もなく、大きかったダイエーは、 今も取り壊しの最中だった。駅前には、ハンディカメラを持った人をぱらぱらと見かける。ざっと見回した限りでは、被害は少ないようにみえた。
駅前のビルに寄ってみる。(歩いて2分) 驚いた。
そこには、震災の時から時間が止まったままのビルしかなかった。
窓ガラスは割れ、そこから見える室内はすべてグチャグチャ。いすも机も本も、あちこちに散乱している。自分の足元には、上から降ってきたガラスの 破片が無造作に積み上げられ、一階部分には大きい亀裂がはいり、もはや入り口とは呼べない。隣のビルは傾いて、その隣のビルに寄りかかった形で停まっている。 後ろのビルは、全体が前に傾いている。これが、本当に半年経った現状なのだろうか。何一つ改善されていない。しかも自分が立っている場所は、大通りである。そこを、たくさんの人が行き来しているのだ。
さらに奥に行ってみると、広大な空き地が現れた。こうしてみると、一見被害は少ないようではあるが、空き地(取り壊した跡地)が2割、使用不能のビルが3〜4割程である。 実際に使われているビルは、半分以下ではなかろうか。長田地区は、再建しようという活気が伝わってきた。プレハブの工場が立ち並び、復興という実感が自分には湧いてきていた。
けれども、三ノ宮は、全然雰囲気が違う。ビルが無意味に建っているだけで、復旧は遅々として進まない。ここだけ時が止まったように、重苦しい空気が漂っている。これは、重大な問題ではなかろうか。ビルには多くの企業が入居しており、経済の中心を担っている。それが、地震後半年でこの復旧状態では、完全な状態に戻るまで、5年はかかってしまう。 その間、業務は当然停止。給料なんてないに等しくなってしまう。
三宮を襲った震度7は、そう広範囲に及んでいたとは思えない。(新築のビルが使用不能になるケースはそう多くはなかった)しかし、東京には圧倒的に古いビルが多い。震度6程度でも使用不可に なることは、容易に想像できよう。歩きながら、東京はどうなってしまうのだろう、といろいろ考えながら神戸市庁に行ってみた。(旧市庁の5階あたりがポッキリ折れて、つぶれたあの市庁である。)時計は5時25分ごろを指して止まったまま。 取り壊すどころか、崩れない様、鉄骨で補強している状態である。中には、まだ机とかそのまま残っており、震災直後と何ら変化がない。
けれども、三ノ宮センター街は、完全に復旧していた。店が建ち並び、たくさんの人が買い物を楽しんだり遊んでいる。この雰囲気は、5年前に来た時と全く変わらない。
三宮センター街から線路をくぐって繁華街に行ってみる。ここは、新宿の歌舞伎町みたいな所で、飲み屋、あやしい風俗の店が肩を並べるように集まっている場所である。当然のように、 古いビルが集中しているため、ほとんどのビルが使用不可能。難を逃れたわずかな店だけが昼間からひっそりと営業を続けている。アーケードになっていた屋根は、火災で半焼した跡がくっきり残っており、電柱は 傾いたままである。繁華街から大通りに抜けると、大きな白い布をかぶせて修理しているビルがあった。その布には、「震災にまけるな!! がんばろう神戸」とでっかく書いてある。
復旧のスピードは、はるかに長田地区より遅い。が、人々の意識は、長田地区のそれとなんら変わらない。正直言って、”人間は強いな”とつくづく実感した。
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