あの大震災を忘れないために


   神戸を訪ねて 95’夏

このコラムは、私が1995年の夏、大学のサークル合宿の帰り道に、震災から半年経った神戸を訪ねた旅行記です。
HPを開設する際、この経験を皆様に少しでもお伝えできれば、と思い、部誌から転載しました。
  あらためて、災害の怖さを認識してもらえば、幸いです。   1998年12月11日  吉田


 行動表     8346M  普通 米原行に乗車
加古川駅⇒東加古川駅⇒(仮設住宅街)⇒明石駅⇒(ここらへんから建物の到壊が確認できる)⇒須磨駅下車


 あの震災の日,ちょうど自分はセンター試験が終わったばかりで、一息ついていた時期でした。「大地震があった!」
の声に飛び起きた自分は、真っ先にテレビをつけると、画面には”神戸 震度 6”。正直言って、甘くみていました。
「なんだ、奥尻の時と同じじゃないか。」震源が瀬戸内海だったので、津波の被害はほとんどないと思い、のんきに
TVを見ていました。

 ショックでした。こんな映像、外国でしかおきないものだと思っていました。阪神高速がなぎ倒され、ビルは倒壊、
あちこちから火の手があがり、延焼する様が悔しいぐらい、手にとるようにわかる。避難する車で道路はごったがえし
避難所である小学校も燃えているありさま。ただTVを呆然としたまま、魂が抜けたように見ていたのを覚えています。
なんの根拠のなかった、強固とした安全神話が、自分の中で跡形もなく崩れ去った虚脱感。ただ見ているだけで、
何もしてあげられない無力感。くやしさ。「なんで。どうして。」今まで経験したことのない、様々な思いで頭はいっぱいでした。

高校の先輩で、ボランティアに行った人がいました。その先輩は、神戸に行く前に東京で研修をうけて(カウンセリング)目的地に 赴きました。その人曰く、
「ボランティアの活動より、(ボランティア同士の)毎晩の夜の飲みが疲れた。そうでもしなきゃ、あまりにもつらい話でこっちが つぶれてしまう。」
 結局、自分は受験前で何もできませんでした。だからせめて半年後の状況でも、この目で焼き付けておこうと思い、合宿の帰り道に 神戸に寄りました。

 加古川駅から、普通の米原行に乗車。次の東加古川駅を出発すると、左手(内陸側)に広大なプレハブ住宅が見えてきた。 かなりでかい。 住宅のそばには、けっこう自動車が駐車しており、生活は順調にみえた。
(後の新聞報道では、老人の孤独死が問題となっていたが。)
 明石付近になると、屋根に青いシートを被せた家が目立ってきた。海側よりも内陸側の方が、被害が多いようである。
明石駅前の市役所(?)は、ビルの中ほどを修理中。ビル自体の被害は、あまり見られなかった。
 車内の雰囲気は、7年前に来た時と全くかわらない。ごく普通である。

 須磨駅付近になると、あちこちに空き地が見え、半壊状態のままの廃屋、ガレキの山など、一見して被害が大きかったことがよくわかる。 それが、車内の明るさとあまりにも対照的であることに気がついた。
 須磨の近くには、水族館、プールがある。そこに向かう家族連れなどで、にぎわっていた。そう、現地に住んでいる人には、この風景は当然なのである。 ただ、離れた東京から、ノコノコと出てきた自分が驚いているだけである。

 
NEXT その2へ

ホームに戻る


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ